Singularity Snow [シンギュラリティ・スノー]
ポッター・クロフトの不思議な冒険 -後編より-



誰もが経験したことのある感覚がある。早朝に目覚めた時の、まるでどんなことも全て成し遂げられるという確信にも似た感覚。それ以前に何があり、その先に何が待ち構えているかなどといった不安材料と自分自身が切り離されたような感覚。まさにその一瞬、人は皆、単なる一存在となり、子供のように気持が軽くなる。少し前に目覚めたドクター・徐シュア・カーターもそのような気分だった。直子の長い黒髪に鼻をくすぐられ、彼は久々に、何でもできるという気持ちに浸っていた。だがその後すぐ、その後すぐに、夕べの静かな雪のように、現実の辛さが心に積もってきた。自分を元気づけるために、彼はいつものように、二人分の朝食を作ることにした。彼は直子の額に軽く口づけをし、左手で彼女の耳元にふれた。そしてローブを着て、冷えた足をウールのスリッパに潜り込ませ、キッチンに向かった。 始めにロール(すでにマーガリン入りの、直子の一番好きな種類)をトースターに入れる。スイッチはまだつけない。次にスープ(今回は二人にとって定番のコーンポタージュ)をいつものボウルに注ぎ、インスタント・コーヒー(朝型の彼はカフェラテ、夜型の彼女はカプチーノ)をマグカップに入れた。そして、サラダ用のレタスを切って(まあ、「切ること」より「ちぎり取る」といった方がちかいかもしれない。彼には少々雑なところがある)、ミニトマトをのせた。最後に新しく買ったフライパンに卵二個を割って入れ、チーズを入れてちょどう良い温度を設定した。 少しして二人の間だけの冗談っぽく「朝食シンフォニー」と呼ばれるものが始まった。目玉焼きの裏を完璧に焼きながらトースターをつけ、パンが飛び出す音と、卵のジュウジュウという音で出来上がり具合を判断し、ちょうどその時にお湯が沸いた。沸騰するにつれ、湯はシューと音を立てて、最後にクレシェンドを奏でた。それを聞いてカーターはなんとなく安心した。正直なところ、朝からバタバタしながら、無理に機械のタイミングに合わせるのは不便だ。今は21世紀半ばであり、彼自身も天才だから、全自動で朝食を用意することは簡単にできる。だが、やはり、いつもやっていることを否定することはできない。テクノロジーはずいぶんと進歩して魔法のようだといっても差支えないが、とりあえず朝のルーティンは続けているのだった。 「魔法と言えば・・・」とカーターがキッチンに来た直子の美しい姿を見て独りつぶやいた。彼女は静かな猫みたいに入って、静かにカーターがバタバタする所を見ていた。



つま先立ちしながら首と腕を上に伸ばしてアクビより唸りのような声をあげる彼女を見ながら、「やっぱり猫にそっくりだ」とカーターは思った。彼女にはそのような愛くるしさがあった。髪はまだ寝ぐせだらけで、眠そうな瞼をした直子は、完璧ではないことで完璧に見えた。カーターはまるで初めて会った時のように彼女を見た。それはただの恋に落ちた人間の気持ちではなかった。 「コーヒーの香りで起きたか、ネコちゃん?」とカーターは素で尋ねた。自分が少しバカみたいに思えた。彼女は彼の緊張感に気づかずに普通に答えた。「もちろんコーヒーの香りで起きたのよ・・・コーヒーの香りがないと全然起きられないもの。そう言えば、大丈夫、天ちゃん?あたしより、あなたの方がカプチーノいるんじゃないの?」『天ちゃん』とは『天才』の省略形だ。最初の頃はただのあだ名だったが、もう長い間ずっとそう呼ばれている。今更普通にジョシュと呼ばれても不自然な気がした。彼女はキッチンのカウンターに行き、長くて器用な指でお湯を注いでいた。スープもコーヒーも一瞬前までは味気のない粉だったのに、お湯を注ぐだけで、まるでもともと美味なるものとして誕生しもののようになった。カーターは彼女の様子を興味深く、夢心地のような気持で見入っていたが。直子にマグカップを渡されて我に返った。ありがとうと言い、彼はカップを受け取った。 「雪が降っているよ、ネコちゃん。私みたいな男は君みたいな女に、『もうちょっと厚着しなさい』とは言わないけど、そのローブだけじゃ風邪をひくぞ」直子は舌を出しながら微笑んで、たちまち自信たっぷりの女性から遊び心を持った子供に変更した。カーターは昔からその顔を見るためだけに言ってきた色々なセリフを思い出した。それが表情に出てしまったらしい。「やっぱり、天ちゃんじゃないわ・・・変態くんよね」直子はまるで今寒さに気づいたかのように、ローブの紐を結び直した。「これからは妙な気が起きないような服を選ぶわ。卵が冷める前に戻ってくる」 直子と一緒に居られるという奇跡について思いを巡らせるひまもなく、彼女が約束通りにオレンジレッドのタートルネック、はき古したジーンズ、そして厚手の靴下といったかっこうでベッドルームから出てきた。黒髪がヘッドバンドで後ろに結ばれている。記事を書くために徹夜して赤くなった目以外には、彼女は完全に健康的で、美しく見えた。正直に言えば、ローブというぐっと来るかっこうと変わらない。ただ、やはり何か普通と違う。カーターから見ると、「2月の下旬なのに大雪?かかってこい!」と彼女の心全体が叫んでいるように見えた。彼女はテーブルに座って食べ始めた。 「さっき確認したけど、やっぱり今日もネットの接続がよくない・・・それでも締切はキツイわ。安くて時代遅れなケーブル・システムを辞めてwi-fiにしようよ・・・『今日は寒いから動かないぞ』とか言わないでね」
<本編につづく>







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